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Posted by ミリタリーブログ  at 

2012年02月08日

ブラックホーク BlackHawk! 2

私がブラックホーク社を立ち上げたとき、当時のSealsのメンバーは、休暇になると、ダクトテープ、スナップ、ハトメ、さらには糸や針、ミシンなど、使えるものはなんでも使って自分に必要な装備を「自作」していました。

Sealsといえば、屈強の男たちの集団と思われていますが、その男たちが、休日には、ミシンの前で針仕事をしていたなどとは、誰も信じないでしょう。

そんなことを間近に見ていた私は、ある海軍基地の近くに、ブラックホーク社(といっても洋裁店みたいなものでしたが)を立ち上げました。当時は、新しい装備について何のアイディアもなかったため、「装備品をカスタムします」という看板を掲げていました。

しかし、当時、「装備品をカスタムして欲しい」という要望は少数派で、お客さんは全く来ませんでした。たまに来るお客さんは、制服の裾直しをして欲しいといったもので、本当に、「洋裁店」になっていました。私は、かなり時代を先取りしていたようです。

この状況を打開するために、私は、各地のSeals部隊に働きかけ、自作のベストやポーチを、サンプルとして提供し、いつでも使えるように、基地にストックしてもらうようにしました。

Sealsにサンプル品を提供することで、彼らから製品の感想や意見が返ってくるため、彼らが何を必要としているのかがとてもよく分かりました。

しかし、絶えずサンプル品を提供し続けなければならず、費用対効果があまり良いとは言えませんでした。そのため、最初の数年間は、苦しい経営が続き、私は少しでも安い材料を求めて、あちこちの問屋やメーカーを回る毎日でした。

そんなことを続けていると、繰り返し注文を受けるサンプル品の種類が固まってきたので、一定の製品は大量生産方式に切り替えることができるようになりました。

ブラックホーク社の正規受注品第1号は、爆発物処理班(EDO)向けの製品でした。この部隊の求める品質、機能は非常に特別なもので、私は、処理班の隊員たちに何回もインタビューし、彼らの求める製品を開発することに成功しました。この時、納入した製品は、現在でも使用されています。

ドア-ブリーチング(ドアを破壊して侵入する器具)などのエントリーツールは、現在のSealsにはなくてはならない装備品です。EDO向けの装備を開発したあとに、この器具を収納できるバックパックの制作依頼を受けました。

このバックパックは、ツールをいつでも取り出せるようにコンパクトにまとめる必要があり、この開発も大変でした。しかし、徹底的に現場の声を尊重した結果、優れた製品を納入することができました。

これ以降、当社の製品が非常に優れていると認識され、特にSeals隊員の間で、口コミで広がってゆきました。その噂が、ついにSealsの装備品供給責任者を動かすまでになり、全Seals部隊へ納品するようになりました。

当社は、大ヒット製品を開発したわけではありません。私たちは、徹頭徹尾、現場の兵士たちの要望を吸い上げ、その声に、任務や作戦の特殊性を合わせて製品を作り上げたのです。これこそが、現場の兵士たちの装備改革をもたらしたのです。

ちょうどその頃、ある法執行機関の装備担当者から、装備品をすべて更新したいという連絡を受けました。その要求は、我々に試練を与えるものでした。


次回更新は、2月15日「ブラックホーク」です。お楽しみに
ご意見・ご感想をお待ちしております。

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Posted by 友清仁  at 07:01Comments(0)knowledge base(基礎知識)

2012年02月01日

ブラックホーク BlackHawk!

おそらく、BlackHawkグループ社長、マイク・ノエル氏ほど、現在のタクティカル・ブロダクツに影響を与えた人物はいないだろう。ノエル氏は、元Sealsに所属し、イラク北部などで様々な任務に携わった。

その活動の中で、軍から支給された装備品が必ずしも現場の兵士の要求に応えていないことを痛感し、ノエル氏をはじめとするSealsたちは、独自に小型で使い勝手の良い装備品を作っていた。同氏は、Sealsを退役すると、ブラックホークを立ち上げ、現場の兵士の声を尊重した装備品を作り続け、現在は、タクティカルギアのリーディングカンパニーとなっている。



以下は、ノエル氏のインタビューである。

私は、湾岸戦争の時、イラク北部でイラク軍を監視する任務についていました。具体的には、イラク戦車部隊が南部の飛行禁止区域から出ないように長距離偵察を行い、時には、警告射撃なども行いました。

この時の偵察方法は、最前線の監視スポットまでヘリコプターで移動し、1週間ほど、その監視スポットで監視することと、地雷原の位置や範囲を捜索することでした。

ヘリコプターから見た砂漠は、全く問題がないように見えても、実際に着地してみると、地雷原の真ん中にいた、などということは日常茶飯事でした。

当時のSealsの標準装備は、LBEでした。M60ガンナーであったので、他の兵士より荷物が多く、M60のほかに弾帯、水、バッテリーなども携行したため、装備だけで40キロ近い重量となっていました。

仲間とともに、地雷原を歩いていると、ALICEパックのストラップの1つが、装備の重さに耐え兼ねて破損し、体の背面につけていた装備がぐるっと前面に移動し、バランスを崩しそうになりました。

慌てて足を踏ん張ったわずか数センチのところに、「バウンシング-ベティ」と呼ばれる対人地雷の信管が砂の中から目玉のように出ているのを見つけました。この地雷は、爆発する前に、ぽーんと空中に飛び、周囲10メートルに被害を及ぼすもので、もし、私が地雷を踏んでいたら、私だけでなく、メンバー全員が戦死していたでしょう。

私は地雷原を抜けると、すぐに装備を応急処置で直したものの、そのときから、もっと優れたストラップや装備が開発できないものかと考えるようになりました。

その任務を終えると、私は、幸運にもSealsの装備開発部門に配属されました。新しい部署では、自分の経験はもちろん、現場の兵士が必要としているものは何か、ということを第1に考えていました。

例えば、ボディアーマの着用が一般的になるにつれて、従来のM1967タイプのLBEでは、装備の質、量ともに十分なものを携行できなくなっていました。

任務に必要なものをすべて携行しようと思えば、ラップサックに入れるしかなく、しかしそれでは、すぐに取り出すことができないため、持って行っても意味がないというジレンマを、当時の特殊部隊は抱えていたのです。

現場の兵士たちは、既存の装備の改良品ではなく、全く新しいコンセプトの装備を求めていることを、まるで大波が襲ってくるような勢いで私は感じました。

私は、1993年10月に予備役に入ると、BlackHawk社を立ち上げました。
つづく・・・


次回更新は、2月8日 「ブラックホーク」です。お楽しみに
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Posted by 友清仁  at 07:01Comments(4)knowledge base(基礎知識)

2011年09月21日

ピーター・シューメーカー Peter Schoomaker

ピーター・J・シューメーカー(Peter J. Schoomaker)は、1997年に就任した特殊作戦軍(SOCOM)司令官を最後に2000年11月に退役したが、2003年8月に参謀総長に復職。2007年2月まで務めた。一度退役した軍人がこうした役職に指名されるのは、1962年にケネディ大統領がマックスウェル・テイラー退役陸軍大将を統合参謀本部議長に指名して以来のことで、極めて異例である。

ピーター・シューメーカーは、1946年2月12日、ミシガン州で生まれた。彼の家系は、代々軍人一家である。1969年にワイオミング大学を卒業し、教育理学士の資格を取得した。その後、ミシガン中央大学で文学修士、ハンプデン=シドニー大学で法律博士の資格を取得する。学生時代は、フットボールの選手であった。

ワイオミング大学で、ROTC(Reserve Officers' Training Corps・・・予備役将校訓練)を修了していたため、陸軍に入るとすぐに少尉に任官し、フォートノック機甲学校へ進んだ。

彼の軍歴は、第4師団第2大隊司令部付少尉から始まり、ドイツで第2機甲連隊第1分隊隊長、韓国で第2師団第73機甲連隊第1大隊指揮官などを務めた。この間に参加した戦いで有名なものだけでも、イーグルクロウ作戦(1980年・・イラン)、アージェント・フリー作戦(1983年・・グレナダ)、ジャストコーズ作戦(1989年・・パナマ)、砂漠の盾作戦/砂漠の嵐(1990年・・イラク・クウェート)などがあり、このほかにも、ハイチの民主化支援などの秘密作戦などがある。

湾岸戦争が終結すると、シューメーカーは、フォートレヴェンワース(カンザス州)の陸軍参謀大学へ進み、将官に進級した。将官としての最初の配属先は、ドイツの第2機甲師団第2旅団の副旅団長であった。その後、フォートフラッグ(ノースカロライナ州)に戻り、統合軍特殊作戦司令部の特殊作戦司令官に就く。1985年から88年まで、第1特殊作戦分遣隊、いわゆるデルタ・フォースの司令官を務める。その後、第1騎兵補給連隊長、師団参謀総長などを経て、陸軍人事部へ移り、即応機械化兵団副師団長となる。

それらの職務を終えると、94年に統合軍特殊作戦司令部指令になった。9.11テロが起こったときは、シューメーカーは、指揮下の特殊作戦軍を派遣し、アルカイダと戦うことを進言したが採用されず、定年を迎え予備役となった。

現役を引退したシューメーカーは、EWAガバメントシステム社、CAEアメリカ社の取締役となり、軍事・防衛問題のコンサルタント、人材開発に努めた。通常はこのまま年をとり、軍事・財界から姿を消すのだが、運命とは分からないものである。

イラク戦争における運用兵力の規模を巡って「イラクの戦後処理には「数十万人」の米軍部隊が必要」との見解を述べたエリック・シンセキ参謀総長が、ラムズフェルドと対立し、更迭・退役させられると、第35代参謀総長として現役復帰することとなる。

次回更新は、9月28日 「中央作戦軍戦略会議」です。お楽しみに。


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2011年08月10日

フランス特殊部隊 French SF2

今回もちょい長めです。最後までお付き合いのほどを・・後半にブラックホール戦記があります

シラク大統領から特命を受けたDGSE(対外治安総局)は慌てた。北部同盟とタリバンに影響力を持てといわれても、今までアフガニスタンやパキスタンなどの地域には、まったくといってよいほど工作員を派遣しておらず、アフガニスタン周辺にいた工作員といえば、トルクメニスタン、アゼルバイジャンおよびタジキスタン地域に基地責任者がそれぞれ1人いただけで、この責任者も3カ月おきに北部同盟と連絡を取っていただけだったからである。

この責任者の第1の仕事は、ドゥシャンベ区域のフランス国外追放者の情報の収集であったのであるから、それも仕方なかったのかもしれない。

しかしながら、シラク大統領の特命もまんざら無理難題でもなかった。なぜなら、フランスはソ連のアフガン撤退後、マスード将軍個人には、多大な援助を行っており、2001年には北部同盟をアフガンの公式政府として認め、マスード将軍をフランスに招待したほどである。(マスード将軍は、フランスには行くことはなかった)

DGSEは、現地の体制が整っていないことを大統領に報告すると、シラク大統領は不機嫌になった。DGSE幹部が、政治的な支援・支持と工作員の派遣はまったく別物であることを根気強く説明すると、シラク大統領は、ようやく機嫌を直し、ペルピニャンのCIPS(特殊空挺部隊)およびCPEOM(山岳作戦部隊)から、できるだけ多くの工作員をアフガニスタンへ派遣するように命令した。

だが、それらの人員は、アフガニスタンの山岳地帯での行動は初めてであるばかりか、現地の言葉も分からなかった。しかも彼らは軍事作戦の要員であり、情報収集や政略的な行動は苦手であった。

フランス国防省も行動を開始した。アフガンでの軍事的行動について研究・検討させるため、ランドット退役将軍と将校数名を現地に派遣した。

しかし軍事的行動の研究といっても、アフガンの政情も分からない上に、どのような行動を起こすのかも不明な状態では、検討することすらできず、結局は、DGSE工作員と同様に、北部同盟やタリバンの人脈作りしかすることがなかった。

情報を集めるべき部署に軍事行動を研究させ、軍事行動をになう部署に情報収集や政略活動を行わせる・・・。
欲に目がくらんだフランスは、統一的な行動がとれない、頭と体がバラバラに動いているようなもので、いずれの組織も効果をあげることができなかった。

そのようなちぐはぐな行動の中で、フランス工作員たちは、自分たちが行く先々にCIAがいることに気付いた。しかもCIAは、簡単に北部同盟幹部を説得し、自分達の意のままに動かしていることが不思議でならなかった。だが、その謎はすぐに解けた。CIAは、旅行カバンからドル札を無尽蔵に取り出しては、北部同盟幹部の懐にねじ込んでいたのだ。

当然のことながら、DGSEも本国に対し買収の資金を要請したが、本国からの回答は、「ノン」であった。もともとフランスは、アフガンで火事場稼ぎをするつもりであって、費用をかけるのは論外であった。

本国からの回答の後、DGSE工作員は、北部同盟幹部を接触したのだが、交渉には、持っていったGPS受信機を見せることしかできず、それだけでは、北部同盟幹部の心を動かすことはできなかった。

そのころには、アメリカはCIAだけでなくグリーンベレーもアフガン入りし、そのGPS受信機の設定も終え、大量の軍事物資の到着を待つのみになっていた。北部同盟が米仏のいずれかと手を組むかは、返答の必要もない状況であった。

以後、GDSEは為すこともなく、アメリカ軍の主導の下で進撃する北部同盟軍の後を追い、首都カブールに入城し、その状況を本国に報告したのだが、内容は、CNNやBCCのニュースとほとんど変わりなかった。

次回更新は、8月24日「カルザイの出庵」です。お楽しみに(1週間お休みを頂きます)
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Posted by 友清仁  at 07:04Comments(0)knowledge base(基礎知識)