2010年01月20日
マスード将軍 Massoud
1952年、マスードは、アフガニスタンのパンシール渓谷に生まれた。父親は、アフガニスタン陸軍の軍人であったため、幼少期にはアフガンの各地を回った。
カブール大学の建築学科に進むが、当時のアフガニスタンの現状を憂いていた。75年に「理想のイスラム共和国」を作るべく蜂起するが失敗に終わる。3年の潜伏生活の後、78年に再度蜂起。ついにイスラム解放区を作る。
この動きが中央アジアのイスラム化に拍車をかけると、深刻に考えたソ連は、79年に突如、アフガンに侵攻する。ソ連軍は、圧倒的な戦力でマスードに攻撃を仕掛けるが、その都度、撃退されてしまった。マスードはソ連軍に「パンシールのライオン」と恐れられ、その名を世界に知られることになった。
1992年、ソ連軍を撃退したマスードは、アフガン北部の拠点を次々に落とし、首都がブールに入城した。マスードは、イスラム暫定政府で国防大臣となった。しかし暫定政府は名ばかりで、相変わらず族長たちは私闘を繰り広げていた。
1995年、タリバン勢力が首都カブールを包囲する。マスードは、幾度となくタリバンを撃退するが、前線司令官の裏切りにより戦線が崩壊。やむなくカブールから撤退した。
マスードの首都撤退をきっかけに、各地の司令官たちは、次々とタリバンに降伏してゆき、マスードは孤立した。タリバンは「投降すれば、命と地位の保証はする」とマスードへ投降を促したが、マスードは「1人になっても戦う」と答え、反撃を開始した。次々に失地を回復してゆき、再び首都カブールを回復する勢いだった。
2001年9月13日、突然の不幸が彼を襲った。アル・カイダの刺客により、彼は暗殺されてしまったのだ。
彼が生きていれば、アフガンの戦いもまた違ったものになったであろう。
次回更新は、1月27日 「ドスタム将軍」です。お楽しみに。
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写真は、イメージです。
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カブール大学の建築学科に進むが、当時のアフガニスタンの現状を憂いていた。75年に「理想のイスラム共和国」を作るべく蜂起するが失敗に終わる。3年の潜伏生活の後、78年に再度蜂起。ついにイスラム解放区を作る。
この動きが中央アジアのイスラム化に拍車をかけると、深刻に考えたソ連は、79年に突如、アフガンに侵攻する。ソ連軍は、圧倒的な戦力でマスードに攻撃を仕掛けるが、その都度、撃退されてしまった。マスードはソ連軍に「パンシールのライオン」と恐れられ、その名を世界に知られることになった。
1992年、ソ連軍を撃退したマスードは、アフガン北部の拠点を次々に落とし、首都がブールに入城した。マスードは、イスラム暫定政府で国防大臣となった。しかし暫定政府は名ばかりで、相変わらず族長たちは私闘を繰り広げていた。
1995年、タリバン勢力が首都カブールを包囲する。マスードは、幾度となくタリバンを撃退するが、前線司令官の裏切りにより戦線が崩壊。やむなくカブールから撤退した。
マスードの首都撤退をきっかけに、各地の司令官たちは、次々とタリバンに降伏してゆき、マスードは孤立した。タリバンは「投降すれば、命と地位の保証はする」とマスードへ投降を促したが、マスードは「1人になっても戦う」と答え、反撃を開始した。次々に失地を回復してゆき、再び首都カブールを回復する勢いだった。
2001年9月13日、突然の不幸が彼を襲った。アル・カイダの刺客により、彼は暗殺されてしまったのだ。
彼が生きていれば、アフガンの戦いもまた違ったものになったであろう。
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