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Posted by ミリタリーブログ  at 

2010年09月29日

CIA無人偵察の活躍 Predeter in action

CIAは、有人無人を問わず簡易空港を世界中に持っている。空軍が無人機(UAV)の運用を始める1995年以前に、無人機ジェネラル・アトミック・ジーナット750(General Atomic Gnat 750)をボスニアで運用していた。

CIAは、ジーナット750より少し遅れて、折りたたみ翼で武器を搭載可能な無人偵察機プレデターを独自に開発した。このCIA仕様のプレデターは、ヘルファイアミサイルが搭載できるようになっていた。ミサイルの射程は8キロで、静止および移動目標の双方に使用できる。

偵察任務に使用する際には、AN/ZPQ-1レーダーを搭載する。このレーダーは、10キロ四方で30センチ、28キロ四方で1メートルの解像度を持っている。1時間の作戦で100キロ四方を最高解像度でカバーできる。CIAが初めてUAVを攻撃手段として使用し、ついで空軍が同様の目的で使用した。

アフガニスタンでの戦闘は、CIAにとってUAVの可能性を実証する絶好の機会であった。情報収集することから兵器を搭載して敵を攻撃し、爆撃効果の判定まで使用することができるためである。その戦果は、確たるもので、作戦中のUAVの評価は非常に高まった。

9月22日に、アルカイダによりプレデターが撃墜されたとき、CIAはすでに周辺国に相当量のUAVを展開し運用していることを明らかにした。アフガン戦が始まるかなり前に、タリバンは、カブールで撃墜したプレデターの機体の残骸を公表したが、この程度のことではすでに数年前から開始されていたウズベキスタンのUAV配備計画を中止させるには至らなかった。

無人偵察機は、厚い秘密のベールに覆われて運用されていたが、開戦時にはすでに何百時間の運用されていることが明らかになっている。

しかしながら、無人偵察機も良いことばかりではない。
2002年2月4日、CIAオペレータは、その建物内部でアルカイダ幹部が会議を開いているとの情報を得て、プレデターを付近に飛ばし、ミサイル2基を建物に向けて発射した。しかし実際に建物の中にいたのは、廃物で金属を集めていた民間人3名で、この3名は当然のことならが死亡した。CIAは、この補償に各遺族に1,000ドルを支払うことになった。

このようなCIAの「勝手な上空からの攻撃」は、中央作戦軍を大いに苛立たせた。CIAは勝手に敵を攻撃するくせに、自分では戦果判定や戦利品の回収などを一切やらず、それらを空軍や中央作戦軍にやらせるからである。

中央作戦軍からすれば、「勝手な攻撃」でも、CIAにとっては、「臨機応変の攻撃」であり、プレデターによる攻撃をやめることはなかった。


次回更新は、10月6日 「グレイの苦悩」です。お楽しみに。
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Posted by 友清仁  at 07:09Comments(0)knowledge base(基礎知識)

2010年09月22日

無人偵察機プレデター The Predator

アメリカ軍が無人偵察機ジェネラル・アトミック・ティアⅠの飛行実験に成功したのは、1989年までさかのぼる。その後、改良が加えられ、1994年、CIAにより、ユーゴスラビアで実戦配備された。CIAは、クロアチアおよびアルバニアからユーゴスラビアに偵察機を飛ばし、多大な情報を得ることができた。

その後、ティアⅠに攻撃の雨量力を加えたティアⅡが開発された。
同機は、ロタックスエンジンを搭載し、航続距離および積載量を増加させることできた。主な装備は、GPSおよび2色カメラ2基を搭載し、胴体の下にウェスカムスカイボール砲塔を搭載し、さらに開口にはノースグロップ・グランマンZPQ-テイザーレーダーを搭載している。

プレデターは、アメリカが把握している戦果の中では最も成果を挙げた兵器である。バクラム空軍基地およびアフガン中東部で多用(飛行時間は2500時間以上)したことにより、重要な情報を収集して、リアルタイムに分析することができた。

軍事専門家は、米軍(CIA、空軍および海軍)は、現在のところ72機の無人偵察機を保有しており、さらに追加調達しているとみている。

無人偵察機による作戦の成功が公表されたことを受けて、ジェネラル・アトミックス社は、プレデターのBバージョンの存在を明らかにした。

プレデターBは、以前のティアⅡに比べて、かなり大型で重量も増えた。この更新バージョンは、ロタックスエンジンの代わりに、アリードシグナル社の331-10ターボプロップエンジンを搭載することで重量の増加に対応している。プレデターBの作戦環境(例えば、地上局)および補給は、ティアⅡと同等でC-130で輸送することができる。

仕様
翼幅:19.5m(14.63m)
全長:10.36m
重量:2903kg(1043kg)
航続時間:24時間(40時間)
巡航高度:13700m(7600m)
積載量:295kg(204kg)
速度:時速388キロ(218キロ)

次回更新は、9月29日 「プレデターの活躍」です。お楽しみに。
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Posted by 友清仁  at 07:15Comments(2)knowledge base(基礎知識)

2010年09月01日

ラムズフェルド Rumsfeld

1969年のニクソンからはじまり、レーガン、ブッシュ、クリントン、さらに子供のブッシュ政権までの40年近くアメリカの国防長官、国務長官などの要職を歴任したドナルド・ヘンリー・ラムズフェルド(Donald Henry Rumsfeld)は、イリノイ州シカゴで生まれた。プリンストン大学を卒業後、海軍に入り、パイロットや飛行教官を務めた。

1969年に、ニクソン政権で機会均等局長(Director of the Office of Economic Opportunity)、大統領補佐官、経済安定プログラム長(Director of the Economic Stabilization Program)等を務めた。
1973年、ワシントンを離れ、北大西洋条約機構(NATO)米国大使に就任する。

1974年8月に彼はワシントンへ呼び戻され、フォード大統領の首席補佐官(1974年 - 1975年)を務め、1975年に史上最年少の43歳で第13代国防長官(1975年 - 1977年)に就任した。

1977年に国防長官を辞任したラムズフェルドは、製薬企業や通信企業を経営しつつ、ロナルド・レーガン政権下で軍備や戦略、日米関係、中東問題など各種の諮問機関で委員を務めている。

第43代大統領であるブッシュ大統領の父親(第41代大統領)とは、共和党内における政敵同士だったため、ブッシュ政権においては一切の役職には就いていない

1998年、米連邦議会の嘱託による超党派の「弾道ミサイル脅威評価委員会」で委員長を務め、北朝鮮などが開発する弾道ミサイルの脅威と、米国本土ミサイル防衛(NMD)の必要性を指摘した。北朝鮮がテポドン1号の発射実験を行ったことで報告書の分析は裏付けられ、NMD計画が推進されることになる。

2000年12月、米国大統領選挙戦の終盤にジョージ・W・ブッシュが国防長官への起用を発表。翌2001年、ブッシュ政権が誕生し、史上最年長の68歳で国防長官に就任した。

2001年9月11日に同時多発テロが起きる。テロ勃発後、すぐに政権幹部を召集し、対応策を数時間でまとめ上げたことは有名である。

その後アメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争において国防長官として指導的役割を果たす。とくにイラク戦争では、少数兵力による迅速な敵地制圧を唱え、派遣部隊の規模をめぐり、軍と対立し、エリック・シンセキ将軍を解任するなど強硬手段を取った。このことから、制服組からの評判も極めて悪く、「歴代最悪の国防長官」と酷評された。

その後、イラク戦争の大義として掲げていた大量破壊兵器が発見されないことやアブグレイブ刑務所での囚人虐待事件でアメリカの道義的威信を大きく損ねたこと、一向に改善されない現地の治安状況などから退任を求める声が高まってきた。

2006年11月8日の中間選挙において、イラク政策に対する国民の不満なから共和党は大敗した。その結果を受けたブッシュ大統領は、ラムズフェルドの辞任を決めた。

ラムズフェルドは、演説が難解との指摘を受けることがしばしばある。
2003年、『やさしい英語普及運動』から、『関係代名詞や従属節を多用し、なおかつ接続詞の乱用による長ったらしい、わかりにくい英語の演説や発言』をすることを顕彰して、『フット・イン・マウス賞』を受賞した。


次回更新は、9月8日 「CIAの作戦」です。お楽しみに。
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Posted by 友清仁  at 07:00Comments(0)knowledge base(基礎知識)

2010年08月25日

CIAとアフガニスタン CIA in Afghan

CIAは、第2次大戦終了後から中東情勢に注視しており、アフガニスタンの情勢にも通じていた。

1999年には、CIAは、パキスタン統合情報局(Inter-Services Intelligence of Pakistan)に接触し、工作員を派遣するようになった。この工作員の任務は、パキスタン統合情報局内に50名ほどのパキスタン人の「特殊部隊」を編成し、アフガンに侵入の上、ビンラディンを逮捕することであった。しかし、1999年10月に、ムシャラフ大統領のクーデターにより、この「特殊部隊」は、解散を命じられた。

外国の諜報機関内に、アメリカの意思を実行する特殊部隊を編成するなど、国際問題に発展しかねないことであったが、この「特殊部隊」も、ビンラディンを逮捕できたかどうかは疑わしい。

なぜなら、CIAは、パキスタン、アフガンおよびイランなど、ビンラディンが潜伏していそうな地域に、膨大な経費をかけて訓練を施したCIA特殊作戦グループをいくつも潜入させていたのだが、1999年9月の時点で、ビンラディンの所在はもとより、アジトの正確な場所すら把握していなかったのである。

パキスタンでの作戦が失敗に終わると、CIAは、北部同盟を軸にした作戦に切り替えた。北部同盟に大量の資金や物資を供給することで、北部同盟司令部に工作員を常駐させることに成功した。一説によると、たったこれだけのことで1億5000万ドル(約135億円)もの資金を投じたとされる。

しかし、これだけの資金を投じてもなお、北部同盟首脳陣は、状況が悪くなると約束を反故にすることがたびたびあった。なぜなら、ロシアやイランの工作員が、CIAよりもはるか以前に北部同盟内におり、同盟内のタジク、ウズベクおよびアゼルバイジャンの指揮官に計り知れない影響力を持っていたのである。北部同盟からすれば、いくら大量の資金を提供されたとはいえ、すぐには、「新参者」のアメリカの言いなりにはなれなかったのである。

北部同盟への援助に加え、CIAは、秘密工作員を人道援助や救助活動員などに偽装させて、アフガニスタン南部に侵入させた。南部には、反タリバン勢力である、パシュトゥーンおよびアゼルバイジャンの部族が多かったためである。しかしこの活動も芳しいものではなかった。2000年時点の協力者は、わずか10名ほどであった。

次回更新は、9月1日 「ラムズフェルド」です。お楽しみに。
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