2014年02月26日
コンクルージョン conclusion
いよいよ、このブログも終わりに近づいてきました。最後というわけではありませんが、アフガン戦争をまとめてゆきたいと思います。
しばらく、論文調の文体となりますが、よろしくお願いします。
これまで知識編や物語などで解説してきたアフガニスタン戦争(2001年-現在)とは、当時、アフガン国内で進行中であったアフガン内戦に9.11同時多発テロをきっかけにアメリカ軍を主体としたNATO軍が「テロとの戦い」を名目に介入した戦争であるといえる。
当時のアメリカ大統領、ジョージ・ブッシュは、9.11テロの直後、タリバン政権に対し、オサマ・ビンラディンの引渡しとアルカイダの追放を要求した。この要求に対し、タリバン政権は、ビンラディンが9.11テロに深く関与している明確な証拠がないことを理由に、ビンラディンの引渡しを拒否し、その代わり、ビンラディンが自主的にアフガニスタンから出国すると通知して来た。しかし、出国日時を明言しなかったため、事実上の拒否といってよかった。
この回答を受けて、アメリカ政府は、これ以上の交渉は意味がないと判断し、2001年10月7日、イギリスとともに不朽の自由作戦を開始することを決定した。英米は、タリバンの対抗勢力の北部同盟と結び、空爆と特殊部隊を中心とした作戦を実施し、わずか1ヶ月で首都カブールを占領し、タリバン政権を駆逐してしまった。
その後、NATO軍は、アフガンの要所に駐留地を建設し、アフガニスタンの統治を開始したが、タリバン・アルカイダ首脳のほとんどがパキスタン国境の山岳地帯へ逃走してしまい、同勢力を完全に消滅させることができなかった。
2001年12月、国連安全保障理事会は、国際治安支援部隊(International Security Assistance Force・・・ISAF)を設立し、アフガン国内の治安維持と、アフガン国治安維持軍(Afghan National Security Forces)の訓練を行うことを決定した。
2001年12月のボン会議で、ハミト・カルザイがアフガン暫定政府の責任者に選出され、翌2002年、カブールで開かれたロヤ・ジルガ(遊牧民族の中で開催される族長会議)にて、アフガン国内でも正式に首長として認められた。2004年の普通選挙でカルザイは大統領に選出され、国号は、アフガニスタン・イスラム共和国となった。
2003年になると、NATO軍は、43カ国からなるISAFが当面のアフガニスタン政府の行政を行うと発表した。ISAFは国連により設立された組織とはいえ、その大部分がアメリカ軍とその関係者であった。しかも、駐留しているアメリカ軍とISAF軍を比較しても、アメリカ軍のほうが圧倒的に多く、アメリカ軍の中にISAFが存在していると言ってよかった。事実、ISAF指揮下のアメリカ軍と中央作戦軍直属のアメリカ軍が混在していた。
この事実上のアメリカ支配に反発するかのように、同年、タリバン政権首班であったムハンマド・オマルが、タリバン軍残党を結集して蜂起した。
タリバン軍は、ハクニ連合体(Haqqani Network)およびハズビ・イスラム・ゴルブディン(Hezb-e-Islami Gulbuddin)を主体とした部隊がISAFに対し数で圧倒したものの、戦法は、ゲリラ戦や待ち伏せ攻撃が主体であった。
これらの戦法に、次第にアメリカ軍が対応できるようになると(タリバンは、ある戦法が1度成功すると、それを何回も繰り返す習性があった)、都市部へ侵入して自爆テロを繰り返すようになった。また、このころから「裏切り者への報復」と称して、ISAFへの協力者に対するリンチも行われるようになった。
このような戦法は、長期間にわたる内戦で苦しんでいた国民にとっては、やっと訪れた平和を破壊する行為にしか思えず、タリバンは、都市部では急速に支持を失っていった。
アフガン国内での支持を失ったタリバン勢力は、アフガン北部でアメリカ軍に武力で対抗するよりも、南部に移り、ゲリラ戦を継続しつつも、暫定政府の腐敗を宣伝する情報戦に切り替えた。
このようなタリバンの方針変更に対し、ISAFも、2006年に部隊を大幅に増強し、対ゲリラ作戦として、クリア・アンド・ホールド作戦を実施し、村々の武器弾薬を回収し、アフガン全土の武装解除を行った。一方で、タリバンの情報戦に対しては、「国家建設計画」を発表し、人心収攬作戦として、ハート・アンド・マインド作戦を開始した。
これらの作戦が功を奏し、タリバン残党は、パキスタン北西部の山岳地帯に残るのみとなった。(南部は、人が住めいないような砂漠地帯であり、南部タリバン勢力は、同地で反抗しているというよりも、そんな場所へかろうじて逃げ込んだといったほうが正しい)
2011年5月2日に、アメリカ海軍特殊部隊シールズにより、パキスタン、アボタバードに潜伏していたオサマ・ビンラディンが殺害された。その3週間後、NATO軍首脳は、ISAF軍などを撤退する声明を発表した。
国連の支持の下、アフガン政府とタリバンとの間で、和平交渉が開始された。2013年の時点で、何万人にも人々が戦火の犠牲なった。多くが民兵や一般市民である。さらに、4000名以上のISAF兵士および民間人、さらに1万人のアフガン国軍の兵士が犠牲になった。
次回更新は、3月5日です。ご意見・ご感想をお待ちしております。
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しばらく、論文調の文体となりますが、よろしくお願いします。
これまで知識編や物語などで解説してきたアフガニスタン戦争(2001年-現在)とは、当時、アフガン国内で進行中であったアフガン内戦に9.11同時多発テロをきっかけにアメリカ軍を主体としたNATO軍が「テロとの戦い」を名目に介入した戦争であるといえる。
当時のアメリカ大統領、ジョージ・ブッシュは、9.11テロの直後、タリバン政権に対し、オサマ・ビンラディンの引渡しとアルカイダの追放を要求した。この要求に対し、タリバン政権は、ビンラディンが9.11テロに深く関与している明確な証拠がないことを理由に、ビンラディンの引渡しを拒否し、その代わり、ビンラディンが自主的にアフガニスタンから出国すると通知して来た。しかし、出国日時を明言しなかったため、事実上の拒否といってよかった。
この回答を受けて、アメリカ政府は、これ以上の交渉は意味がないと判断し、2001年10月7日、イギリスとともに不朽の自由作戦を開始することを決定した。英米は、タリバンの対抗勢力の北部同盟と結び、空爆と特殊部隊を中心とした作戦を実施し、わずか1ヶ月で首都カブールを占領し、タリバン政権を駆逐してしまった。
その後、NATO軍は、アフガンの要所に駐留地を建設し、アフガニスタンの統治を開始したが、タリバン・アルカイダ首脳のほとんどがパキスタン国境の山岳地帯へ逃走してしまい、同勢力を完全に消滅させることができなかった。
2001年12月、国連安全保障理事会は、国際治安支援部隊(International Security Assistance Force・・・ISAF)を設立し、アフガン国内の治安維持と、アフガン国治安維持軍(Afghan National Security Forces)の訓練を行うことを決定した。
2001年12月のボン会議で、ハミト・カルザイがアフガン暫定政府の責任者に選出され、翌2002年、カブールで開かれたロヤ・ジルガ(遊牧民族の中で開催される族長会議)にて、アフガン国内でも正式に首長として認められた。2004年の普通選挙でカルザイは大統領に選出され、国号は、アフガニスタン・イスラム共和国となった。
2003年になると、NATO軍は、43カ国からなるISAFが当面のアフガニスタン政府の行政を行うと発表した。ISAFは国連により設立された組織とはいえ、その大部分がアメリカ軍とその関係者であった。しかも、駐留しているアメリカ軍とISAF軍を比較しても、アメリカ軍のほうが圧倒的に多く、アメリカ軍の中にISAFが存在していると言ってよかった。事実、ISAF指揮下のアメリカ軍と中央作戦軍直属のアメリカ軍が混在していた。
この事実上のアメリカ支配に反発するかのように、同年、タリバン政権首班であったムハンマド・オマルが、タリバン軍残党を結集して蜂起した。
タリバン軍は、ハクニ連合体(Haqqani Network)およびハズビ・イスラム・ゴルブディン(Hezb-e-Islami Gulbuddin)を主体とした部隊がISAFに対し数で圧倒したものの、戦法は、ゲリラ戦や待ち伏せ攻撃が主体であった。
これらの戦法に、次第にアメリカ軍が対応できるようになると(タリバンは、ある戦法が1度成功すると、それを何回も繰り返す習性があった)、都市部へ侵入して自爆テロを繰り返すようになった。また、このころから「裏切り者への報復」と称して、ISAFへの協力者に対するリンチも行われるようになった。
このような戦法は、長期間にわたる内戦で苦しんでいた国民にとっては、やっと訪れた平和を破壊する行為にしか思えず、タリバンは、都市部では急速に支持を失っていった。
アフガン国内での支持を失ったタリバン勢力は、アフガン北部でアメリカ軍に武力で対抗するよりも、南部に移り、ゲリラ戦を継続しつつも、暫定政府の腐敗を宣伝する情報戦に切り替えた。
このようなタリバンの方針変更に対し、ISAFも、2006年に部隊を大幅に増強し、対ゲリラ作戦として、クリア・アンド・ホールド作戦を実施し、村々の武器弾薬を回収し、アフガン全土の武装解除を行った。一方で、タリバンの情報戦に対しては、「国家建設計画」を発表し、人心収攬作戦として、ハート・アンド・マインド作戦を開始した。
これらの作戦が功を奏し、タリバン残党は、パキスタン北西部の山岳地帯に残るのみとなった。(南部は、人が住めいないような砂漠地帯であり、南部タリバン勢力は、同地で反抗しているというよりも、そんな場所へかろうじて逃げ込んだといったほうが正しい)
2011年5月2日に、アメリカ海軍特殊部隊シールズにより、パキスタン、アボタバードに潜伏していたオサマ・ビンラディンが殺害された。その3週間後、NATO軍首脳は、ISAF軍などを撤退する声明を発表した。
国連の支持の下、アフガン政府とタリバンとの間で、和平交渉が開始された。2013年の時点で、何万人にも人々が戦火の犠牲なった。多くが民兵や一般市民である。さらに、4000名以上のISAF兵士および民間人、さらに1万人のアフガン国軍の兵士が犠牲になった。
次回更新は、3月5日です。ご意見・ご感想をお待ちしております。
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いきなり終了で申し訳ございませんが・・・・
シールズ・チーム6 Seals team 6 2
アフガンに展開したODAについて ODA in Afghan
J-DAM
B-52
カンダハル Kandahar
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そしてお疲れ様でした。
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