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Posted by ミリタリーブログ  at 

2010年01月27日

ドスタム将軍 Dostum

「巨魁」、「変節漢」、「日和見主義者」。彼には、さまざまなあだ名がある。それは、彼の半生が、それらの言葉そのものだからだろう。北部同盟の一方の雄、アブドゥール・ラシード・ドスタムは、アフガニスタンのコテル・ド・クーで生まれた。

幼少期のことはよく分からない。1970年前半には、ジョージャン州シェバルガーンにある国営ガス油脂精製プラントで働いていたようである。この頃のアフガンは、ソ連の支援の下、急速に共産主義が浸透し始めていた。ドスタムもその影響を受け、積極的に組合活動に参加していた。やがて油脂精製プラントを辞め、共産革命志願兵として、ソ連へ亡命する。ソ連での生活も不明な点が多い。もっぱら政治士官として教育・訓練を受けていたらしい。

ソ連のアフガン侵攻が開始され、ソ連軍が彼の故郷シェバルガーンを占領すると、国家安全保障委員としてアフガンに戻ってきた。彼の仕事は、ソ連国家安全保障省の支援の下、地元の子弟を募り、赤軍親衛隊を作ることであった。彼はこの仕事をうまくやり、数年で連隊規模の部隊を作った。このとき彼は、連隊幹部をすべて自分の血縁・地縁で固め、後の軍閥の基礎を作った。

ソ連軍が1989年にアフガンから撤退し、91年にソ連が崩壊すると、後ろ盾を失ったドスタムは、かつて敵だったマスード将軍と同盟を結ぶ。ところがタリバンが勃興し、95年にマスードがカブールを撤退すると、マスードを裏切り、地元勢力のグルブディン・ヘクマティアルと結び、マスードを攻撃した。

彼の変節癖はこれで終わらず、タリバン勢力が強くなると、今度はタリバンへ接近した。根拠地のマザリ・シャリフの保全をタリバンに約束させる代わりに、北部同盟のイスマイル・カーンを逮捕し、タリバンに渡した。

その後2度、マザリ・シャリフの族長たちから追放され、トルコに亡命したが、その都度、復帰してきた。9.11の頃は、一応、反タリバンであったが、アメリカには、自分の態度は明らかにしていなかった。


次回更新は、2月3日 「チーム595」です。お楽しみに。
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Posted by 友清仁  at 07:00Comments(0)knowledge base(基礎知識)